家系図

 

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敵は本能寺にあり

光秀3

花も花なれ

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古今伝授

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  光秀の娘・明智玉(後のガラシャ)は、当代一の教養人であった、勝龍寺城(長岡京市)城主・細川藤孝(幽斎)の長子・忠興のもとに、天正6年(1578年)、16歳の時に輿入れし、幸せな新婚時代を送りました。

  その後、細川父子と玉は、宮津城(宮津市)に入りますが、天正10年(1582年)5月27日、光秀は丹波亀山城から愛宕山に向います。主君信長から中国出陣の命令を受けた光秀ですが、翌28日の連歌会での光秀の発句は、「時は今 あめが下しる 五月かな」。大事を前にした心境を歌ったものともいわれています。そして、6月2日未明、桂川を渡った光秀は、「敵は本能寺にあり」と号令を発し、「本能寺の変」を起こします。

 信長を討った光秀は、山崎の合戦(大山崎町)で、羽柴秀吉に敗れ、落ちのびる途中、命を落とします。一夜にして逆臣の娘となった玉は、二人の子供から引き離され、味土野(京丹後市)に幽閉されます。2年後、幽閉を解かれて、宮津に戻り、大阪玉造の細川邸でキリスト教に改宗したガラシャは、石田三成に人質として登城するよう求められても拒否し、慶長5年(1600年)、家来に命じて、自らの命を絶ちました。

  辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

  ガラシャの死は「義死」といわれ、その影響の大きさに驚いた三成は、諸大名の妻を人質にとるのを中止したといわれています。

 その後、細川幽斎の居城・田辺城(舞鶴市)に、西軍15,000の兵が押し寄せますが、細川幽斎はわずか500の兵で、約2ヶ月間籠城を続け、関ヶ原の戦いを有利に導きました。

  幽斎は、当時唯一の古今伝授の伝承者であり、田辺城籠城の際、後陽成天皇が勅命により講和が結ばれ、幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためだといわれています。

  また、忠興は徳川家康に重用され、関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩39万9千石を領しました。その子忠利の代には肥後熊本藩54万石の領主となり、現在まで続く細川家の基盤を築いたのです。

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